血縁者による別の視点

一ヶ月ぶりに弟に会った。場所が秋葉原なのは趣味とは関係なく、単に二人の家の中間地点(総武線も使える私鉄沿線在住)だから。近況報告と、最近コミュニケーションに支障をきたしている母との関係問題について話す。
途方に暮れているのは二人とも同じだけれど、母と一緒にテンションが上がっていってしまう私よりも、彼は多少、冷静。
「どうして家の両親は、我々を途方に暮れさせたり、悲しませたり、無力にさせたりするようなことばかりするのか?夢を抱きすぎているのかもしれないかど、親って、もっと子供を導いたり、励ましたり、勇気付けたりするものなんじゃあないか?」
と私が言ったところ、彼がこう言っていた。
「そうかもしれないけど・・・でも、そうとはいえ、自分の考え方があの人たちの考えを引き継いでいることも多い、って感じることが結構あるんだよね。
そういうとき、自分の考えが『周りの人』よりは『親』に近いのに気づいてびっくりすることもあるよ。なんかの話をしていても、あれ何か自分の感じ方周りの人と違うみたいだ、って。
でも、違うのが悪いかっていうと、そうではなくて、ある意味何かに気づけているってことで、それは大事だと思う。何かさぁ・・・『それって、そんな軽い感じで話すことじゃないだろう』みたいなこと。結構みんな、笑い話みたいに話すけどそれは違うだろ、とか思うことあるでしょ。」
「悪いこととかおかしいこととか残酷なことに慣れてるみたいな?」
「そうだね。で、そういうのをおかしいなーって思えること自体が、なんかあの人たちからもらったものなのかなー、とか思うんだよね」
自分はそのズレを感じても、それを「彼らからもらったもの」だとは思っていなかった。そのズレに、相手に、「なんて薄情なんだ、なんて傲慢なんだ、なんて無神経なんだ・・・」と怒りを募らせるか、認識の断絶にただ無力感を感じるしかなかった。そもそもそういう考え方をする自分、を振り返って鑑みるようなことは無かった。ある意味、親にしっかり導かれていたのかもしれない。良くも悪くも。
それで何か、大幅に変わったわけでもないし何か解決したわけでもないけど。自分と同じ立場の弟が違う視点を持っていたのも興味深かった。

「先週から体調が悪くてあまり食欲がない」と言っていた彼は、カレイの煮付け定食のあとにネギトロおくら丼を食べて「なんか調子が良くなった」と言って帰っていった。最近ジョブカフェに行くようになったらしい。