アンドレアス・グルスキー展 @国立新美術館 感想

ピントがくっきりと合った写真が好きで、それは「モノがはっきり見えて、視力が良くなったような気がするから」という情けない理由なのだけれど、グルスキー展はそれを超えて「人間の知覚を超えた視覚を手に入れたような」体験を与えてくれた。

グルスキーの作品は、団地などの建造物や風景、「証券取引所」や「マスゲーム」のような群衆を題材とし、あたかもその全てにピントが合ったかのような高精細の画面を作っている。画面には中心と周囲の別、重要な部分とそれ以外の別がなく、写ったもの全てが等価に存在している。「モンマルトル」で団地のそれぞれの窓が、「クフ」でピラミッドを構成する石ひとつひとつがそうであるように。

この表現は、写真でなく絵であれば特段珍しいものではない。ブリューゲル、ボス、はたまた絵本の「ウオーリーをさがせ」や絵巻絵本の「川」のように、画面中のそこかしこでいろいろな事件が独立に起きて主役を示さないような描き方はよくある。そのとき自分の目は、指示のない遊び場をかけまわるように自由に、かつ少し不安に動いている。落ち着かないけれども、「そのために作られた絵」であることがわかっているのでさほど不思議な感じはしない。

しかしその表現が、あたかも現実であるかのような写真上で行われると、絵とは比べ物にならないほどの強烈な違和感がある。全てにピントが合っている、焦点が合っている、つまり全てに意識が向いているというのは、人の意識はひとりひとつということを超えている。神の視点といっていいと思う。

もし仮に「周りの全てに焦点を合わせる」ことができるのだとしたら、私の体は足の裏以外全身びっしりと目玉がついていることになるだろう。そのとき、自分が前を向いているのか、横を向いているのか、上を向いているのか下を向いているのかは既にわからなくなっているだろう。そのように、自分がどこにいて、どちらを向いているのかすっかりわからなくなるような、不思議で不安定な浮遊感がこれらの写真にはある。

この、あたかも知覚が拡張されたかのような新鮮な驚きは、図録の小さい画像では体感することができないものなので、展覧会に行く価値有り。