空しさの因数分解2月16日編

食事を奢るというのは不思議な行為で、単なるプレゼントとは大いに異なるように思う。「食事を奢る」という場合、奢る人間と奢られる人間がともに食事をするのであって、お食事券を渡して「一人で/誰かと食べてきていいよ」というのとは意味が違う。
まず、奢る場合、奢る人間はあたりまえだけど自分の分も払う必要がある。相手に食事をさせる金額の倍必要だ。一方通行で渡してしまえるプレゼントとの違いがそこにある。
第二に、「プレゼントを渡す」という場合なら、受け渡しはすぐに済み、そのあとそのプレゼントがどう扱われるかは贈る側の人間にはわからない。
しかし「食事を奢る」という場合、その行為の最中、奢られる側は奢る側に、実質的に時間を拘束される。提供した食事を消費したことを確認される。
このことから、食事を奢るという場合、奢る側には、相手に食事をさせる金額の倍を支払うだけのメリットがあり、おそらくそのメリットとは「相手の時間を拘束すること」もうすこしまともに言うと「相手と(食事をしながら)話す時間を作ること」のように思う。
つまり「奢る」というのは、単純なプレゼントよりも、より「贈る側」の満足が重視された行動なのだろう。学生時代アルバイトをしていたフレンチレストランでは、その苦々しい例を見ることが多かった。同伴出勤や接待はワーストだが、そこまで言わなくとも、「私と食事をしながらお話しすることは、あなたにとっても楽しいですよね?」という暗黙の期待があるように思う。

ところで「食べ物/食事のプレゼント」には、「(食べて)消えてなくなってしまうもの」という別の側面もある。後残りさせたくない場合に適切と考えられる。
軽いお詫びなど、特に贈る側のことを覚えておいてもらわなくて良いときか。
しかし、この二つが組み合わさって「お詫びとして食事を奢る」となると対応に困る。
申し訳ない、決まりが悪いのでお詫びになにか贈らなければ。しかし、モノ・カネをあげるわけにいかないので、あとに残らないよう食事にしたい。
だが贈られる・奢られる側は、そもそも詫びを入れられるようなことをした人間と食事の間一緒に過ごすのは愉快ではない。ただ上に書いたように、基本的に奢る側の満足が主となっているので、断りづらい。なにか他の解決策がないものかとも思うがなさそうだ。
そうカラ元気を出して「お寿司がいい?焼肉がいい?」と言われても、・・・どちらも、魅力に感じません。