崩壊感覚@国立近代美術館

http://www.momat.go.jp/Honkan/The_Sense_of_Collapse/index.html
「東京人」の今月号で取り上げられていて気になっていたので行ってみた。そのライターの方はアンチ廃墟ブームという感じだったけど、自分はそれが見たくて行く。(ミーハーですが)
宮本隆司氏のギャラリートークを録画したものがあり、彼の「神戸1995」の写真と見比べると興味深い。
「(概要)これまでに『廃墟』ということで撮ってきたが、これ(神戸)に関しては自分の『作品』ということにまだ、『後ろめたさ』がある。それはあまりにも死に近すぎる、ということではないか。神戸は自分が生きている中で初めて『事件』としてリアルタイムで感じたことだから。」
いままで、廃墟写真のうちで、セピアにしたりソフトフォーカスにしたり、雰囲気をつけて脚色したものはなんとなく不愉快と感じていたけれど今日その理由がわかった気がした。自分なりの解釈としては、廃墟というのはあくまでも「死」なんだなぁ。と。完全に解体して、部品、素材になってしまうともう何も感じないんだけれど、(人間で言うと二酸化炭素とか炭素とか水とか)その前の状態、死んでいながらもその記憶、意思と尊厳を残している状態か。(人間で言うと遺品が残っている状態か)それを「死」という出来事を忘れ、「廃墟として美しい」として脚色するのはもとあったそれの尊厳を失わせる行為のような気がするのだ。神戸は未だ忘れ得ない記憶だから、それを「廃墟」として扱うことに抵抗があるというのはとても納得できた。

http://www.fujifilm.co.jp/photographer/2005_03miyamoto/index.html

ところで、
「○○ちゃーん、みてごらん、エンジェルちゃんだよー。」
ママ、それは遊郭の写真です・・・。まぁ子供にはわからんか・・・。