歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ」がわからない

「読んだ人みんなびっくり」の仕掛けミステリなのでネタバレ注意!!一応核心部分は白抜きに。

葉桜の季節に君を想うということ (本格ミステリ・マスターズ)

葉桜の季節に君を想うということ (本格ミステリ・マスターズ)

よく知られている「だまし絵」に、二人の人間の顔が向かい合っているものがある。それは二人の人間の顔にしか見えないし、二人の顔が描いてあることに間違いはないのだけれども、実は視点を変えると、その絵には壺が描かれていることがわかる。絵が変わったのではない、壺は最初から描かれている。我々は顔と壺、両方を最初から見ていながら、そこに壺があることに気づかなかったのだ。今度は逆に壺に目を向けてみよう、そうするともう、そこには「壺の絵」があるようにしか見えなくなってしまった。どうしてさっきは二人の顔に見えていたのか・・・

というような話と解釈した。
うーん、あそこではやっぱりびっくりしましたよ。やられましたよ。でも。

だから何だっての?

というのが今のところ最大の感想。
「主人公、依頼人、被害者、ヒロインが全て老人だった」というのがこの小説の中のどのような「機能」にかかわるのかが今ひとつ理解できない・・・。それと、交互に挿入される、主人公の血気盛んなヤクザ潜入操作時代の殺人事件が全体にどのような効果を果たしているのか意味がよくわからない・・・。
要するにあれか、「誰が殺したか?」式のミステリじゃないのが気に食わないのか。その手のものとこの作品は、同じ紙の上に描いてあるものだとしても、クロスワードパズルとだまし絵くらい違う。クロスワードパズルだと思って解こうとしていたら、「その絵を遠くから眺めると、白黒のドット絵のだまし絵になってますよ!」と言われたようなものか。

確かに、高校生と一緒にビル清掃業者に交渉を持ちかけるシーン、妹の綾乃と本庄に行くシーンなど、「あれ?それ、バレちゃうんじゃないの?」と思わされた。でもやっぱりだまされきってしまいましたー。

別の考え方をすると、「誰が犯人か?」では、いかに犯人を犯人らしからぬように見せる、というのが手法の一つ。「どんな人間が犯人か?」という質問で、読者が予想するイメージをいかに裏切るか、というのが見せ所。可憐な少女?いたいけな子供?まさかね?というのをやってのけるのも、それにだまされるのも、ミステリの楽しみの一つ。(論理的に犯人であることを立証するのとはまた別の。)
その「人に対するイメージの裏切り」の楽しみを、対象を大きく広げて、全く違う方向に展開させたのがこの作品か。または、老人について、ステレオタイプな描写しかしない同業者や、それが現実に即していないと知りながらも諾々とそれを読みなしてしまう読者に対する挑発、挑戦だろうか。そう考えると物書きとしての意欲的な取り組みと感じられる。

ところで「補遺」は完全に蛇足ではなかろうかと思う。そんな、知ってるよ。手品師がしつこく種明かしするようで興ざめ。