北斎展

とったぜ代休。そして朝一番に国立博物館へ。並ばずには済んだものの、人は多かった。(後で、そんなのは多いの内に入らないことがわかった。)


なんとも大満足。資生堂の「アール・ブリュット展」も2回訪れて大満足だったけど、これは違った方向で満足。どちらかというとキュレーターの企画力で魅せるようなのがすきなのだ。こういう「とにかく集めて集めまくりました!世界中からかき集めました!老若男女どーんと寄ってらッしゃい観てらっしゃい!」という展覧会はそんなに好きじゃない。


でもこれは良かった。量の満足感というのはやはり有るものだと思う。
というよりは、北斎の作品の数はあまりに多く、時期や作品のメディア、題材としているコンテンツも多様なので、それらをきっちり抽出するにはそうとうな数が必要で、彼らはそれをやり遂げた、ということなんだろう。500点以上の目録、これだけ見せ付けられると、まるで奇跡ばっかり起きる伝記を読まされているみたいだ。


作品は年代別に並んでいて、出口近くにはほぼ絶筆にあたる錦絵「弘法大師」「赤壁曹操」がある。恐ろしいことに、迫力、技術、新鮮さ、この最晩年のものが最高の完成度を見せている。90近くの、よいよいの爺さんが書く絵とは思えない。
若者の絵は力強く、年寄りの絵は枯れている、なんていうのは幻想だというのはもうわかっているのに(たいてい、年寄りのほうが、洗練されていて、新鮮だったりする)、それでもこの鮮やかですさまじい絵(サイズも1.5×2mだ)を描いている年寄りを想像するのはちょっと難しい。
会場の9割以上を占める60歳以上の人々は、これを見てどう思うのだろうか?「90に近くなってもこれだけ頑張れる」という励ましになるんじゃないかと最初思ったが、そうでもないかもしれない。
富嶽百景の序文にあるような「70までの自分の仕事は実にとるに足りない、・・・73になって・・・いくらか悟ることができた・・・100までには神妙の位にいたるのではないか」という、75歳の時の言葉は、尋常ではない向上心、自分の力量に対する奢りの無さ、仕事への執着を感じさせる。またそれ以降の作品は全くもってその言葉を裏付けている。

天賦の才があって、なおかつそこまでの執念を持って努力してきた人間の成果の集大成だ。60過ぎたらのんびりして、山歩きと蕎麦打ちでもするかって年寄りの、60前までの集大成のわけがない。
年をとればとるほど、各人の成してきたことの質は差が大きくなる。どこまでも自分の仕事への執着を追い求めて生きてきた人間の成果を見ることは、もしかすると彼らに「老人格差」を見せ付けているんじゃないだろうか。