母と娘という呪い  佐野洋子「シズコさん」/ よしながふみ「愛すべき娘たち」

シズコさん

シズコさん

私は、母の手をさわったことがなかった。抱きしめられたこともない。あの頃、私は母さんがいつかおばあさんになるなんて、思いもしなかった――。シズコさんは洋子さんのお母さん。結婚して北京で暮し、終戦、引揚げの間に三人の子供を亡くし、波瀾の人生を送る。ずっと母親を好きではなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎。

泣けたという感想続出のベストセラー。母との関係が完全にこじれている私にも、何か知見と温かみが感じられるのではないか?うわーんおかあさんごめんなさい私いい娘になりますって言いたくなる?とちょっと期待して読んでみた。

感想は、絶望的。

書評や感想では、「ゆるし」の瞬間に感動しているひとが多いのだけれど、ここには、人と人のあいだの、母と娘のあいだの憎しみ合いのゆるし、というものは無い。
母親は、もうすっかり呆けてしまって、その憎んでいたひととなりを完全に失っているのだ。「ただのかわいいばあさんになってしまった」と述べられているように。あんなに言わずにいた「ありがとう」と「ごめんなさい」を「バケツをぶちまけるように」ふりまくような人になって。そして姿まで、すっかり変わってしまった。
憎んでいた相手は、消滅してしまった。もう言葉は届かず、罵声を浴びせることもできず、悔やみを伝えることもできない。その人から受けてきた苦しみを晴らすこともできなければ、その憎い相手から謝罪されることも無い。
「あなたが悪いんじゃないのよ」という呆けた母の言葉、彼女が感じた「ゆるし」も、呆けた母が誰だか知らない人にむけて放った妄言を、佐野氏が自分によいように、自分の自責感が和らげるために解釈したのに過ぎないのではないか。そこにはひとりずもうしかない。すでに作中でも「私を苦しめていたのは、母が私を憎んでいるということではなく、私が母を憎んでいるということの自責感だったのではないか」と触れられているように、彼女の苦しみは自責であり、(そんなにおかしい親ならば捨てても苦しくないはずだ)そこからの快復、脱却、ゆるしというのも、(呆けてすっかり別人になってしまった)母親のことばを媒介して彼女自身で作り上げているものだ。人と人との間の理解や交歓ではない。これほどの苦しみを作るのも自分、癒すのも自分である、憎み愛されたいと願っていた相手との間ではない、そこに強い空しさを感じる。(自分の心の中のことなんだから気の持ちようでなんとかなるじゃないかとポジティブに考えることもできるかもしれないが。。。)
「私が母を憎んでいるということの自責感だったのではないか」ということに、読者はもちろん気づく。前半、母親への憎しみと、心無い対応をつづったエピソードが続くが、徐々に、私には冷たかったが、社交的で立派な母として周囲に振る舞い、引き揚げ後でも子供によい服を自分で仕立て、家事に完璧で、きちんと化粧をし、夫を亡くしたあとにも子供を大学へ送り・・・ と賛美が増えていく。なーんだ、結局母親賛美か、年はとりたくないもんだな、ああお涙頂戴万歳、と思って嫌になりかけたが、これらの賛美はすべて、「でも私は彼女を愛せない、そんなに立派な母親であるはずのあのひとを愛して当然のはずなのに憎い、そんな自分が許せない」という表現であることに気づく。そんなに嫌いなら嫌いでいいじゃないか。身代をはたいて高級老人ホームに入れなくてもいいじゃないか放って置けば。しかしできない。母親は子供を愛し、子供は母親を愛する、という呪縛から逃れられない子供を、被虐待児童を扱ったノンフィクションのなかで見る。しかし70歳の佐野氏と90歳のシズコさんの間ですら、その呪いは解けないのか。これがこの本で感じたふたつめの絶望だった。



続いてよしながふみ「愛すべき娘たち」

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

( ・・・いやーどうしてこれを「シズコさん」とまったく同じタイミングで買ってしまったのでしょう自分は・・・シンクロしすぎだよ・・・。) こちらは「娘」をテーマにしたオムニバス式短編集。どれも読後感が悪く気合が必要で、あまりおおっぴらにおすすめはできません。男性は不気味感を感じつつも読み流せるかもしれないけど・・・。作者の心理に対する洞察力の深さは「フラワーオブライフ」などでも感じていたけれど、本作ではそれが鋭すぎて読むほうに血が流れる。そして作者が・・・いや「あのひととここだけのおしゃべり」や「大奥」などでもそうなんじゃないかと思っていたけれど・・・労多く益の無い「ジェンダー」や「フェミニズム」というテーマに直球を投げられる少女漫画家であることがこれではっきりわかった。

主人公、30歳独身の公務員「雪子」とその母「麻里」の関係を中心に話は進む。やっぱり父親は早くに病没、母と娘の関係は良くも悪くも深まる。がんからの快復を機に、27歳の元ホスト「大橋」と再婚する母。居場所の無くなった雪子の心情が描かれる1話と、麻里の母(雪子の祖母)・麻里・雪子により「母と娘の再生産される関係」が描かれる最終話の対構成は見事、そして閉塞感に寒気がする。

「私は美しくないわ」と真顔で言う「麻里」。幼少から彼女に容姿のコンプレックスを植えつけていたその母が語る言葉と、それを聞いた雪子の感想がこの回の白眉か。

「それはまあ得意そうな顔で笑って見せたんですよ!とっても生意気そうな嫌な顔だった!私これ以上この子ちやほやされたらこの子はだめになってしまうと思ったの 麻里のことをあの人みたいに嫌な人間にしてはいけないって思ったの! だから私それから麻里のことはわざと顔を褒めないようにしてきたのよ」
母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ

容姿についてあざ笑われてきた母が美しい娘に正論を吐きながら復讐するさまと、正論を憎み「親だって人間だもの期限の悪い時ぐらいあるわよ!あんたの周囲が全てあんたに対してフェアでいてくれると思ったら大間違いです!」と吐きそして娘の容姿にはけしてけなすまいとして生きる麻里のさまは完全に対をなしており、母と娘という関係が、どう(自分の心に)正しく振舞おうとも自分の「コピー(同質なもの)」か「鏡像(逆のもの)」を作ってしまうということが宿命的に描かれていて息詰るようだった。

救いといえるのは、ここでは母親・麻里の再婚した夫「大橋」の存在。母親に「お前は醜い」と否定され続けてきた(実際のところ美人である)彼女が、屈託の無い彼に対して自己否定のかたくなな心を開いていくさまが希望と温かみを感じさせる。いやぁ、人間が単性生殖でなくってよかったと・・・(まぁ、心理的な補完要素になれば生殖はどうでもいいのか?)