「世界の終わり、あるいは始まり」歌野晶午

「世界の終わり、あるいは始まり」歌野晶午

世界の終わり、あるいは始まり (文芸シリーズ)

世界の終わり、あるいは始まり (文芸シリーズ)

風呂場でミステリを読むとあがるタイミングを逸す。ネタバレ部は白文字で。

法月綸太郎のミステリ評論集「名探偵はなぜ時代から逃げられないのか」から読む本をぱらぱらと拾ってくる。彼によると「数ある歌野作品の中でも、もっとも実験職の濃い作品だが、この小説には3本の柱がある―A;身代金誘拐、B;少年犯罪と父子の絆、C;シナリオ分岐型ノベルゲームのマルチエンディング方式を力技で一本の小説に仕立てたような構成。」とのこと。

私にとっては、Cつまりこの本のしかけは「ミステリ作家の苦労を読者に思い知らせるためのしかけ」なのかと思っていた。
先日読んだ「プリズム」に続いて、解をひとつに絞らない、多層式のミステリとして読んだけれど、・・・これ、解は結局ひとつ(息子が誘拐殺人事件の犯人である)であって、多層の部分は「動機は何か」と「事後処理をどうするか」に過ぎないのではないか。誰が犯人なのかについての推理は一直線、証拠の発見についても(暗号らしきものについても)ほとんど一直線で驚きはなくあきらめ(ああやっぱりそうだったのか、という)しかない。「読者がスカッとする終わり方を考えるのって、難しいよね☆」と突き放されたようで、おいおいそれを考えるのがお前の仕事だろ、といいたい気がする。ノベルゲームならこれでいいと思うけど。

根拠の無い明るさに満ちたさわやかな終わり方が不気味。


父子の絆と犯罪という視点において、岡嶋二人の「チョコレート・ゲーム」との類似性が指摘されていたが、既読だったのでなるほどと感じた。